来る7月20日(日)、参議院選挙特番でTBS選挙の日2025のスペシャルキャスターを務める爆笑問題の太田光(おおたひかり)さん(60歳)。
お笑い芸人としての活躍にとどまらず、鋭い政治的発言で注目を集める太田さんですが、実は知られざる家族のエピソードがあります。
今回は、太田さんのご両親について調べてみました。
ぜひ最後まで読み進めてください!
- 太田光の父親の職業は?
- 太田光の父と叙々苑の間で何があったの?
- 太田光の母親はなぜ永井一郎とつきあっていた?
- 太田光はどんな子供時代を送った?
- 両親の教育は?
- 両親に対してどう思っている?
太田光の父親と叙々苑の裏話!
引用:Feathered news 太田光さんと三郎さん
https://petitwings.com/archives/12400
関東で有名な高級焼肉店叙々苑は1976年4月、創業者の新井泰道さんによって六本木にオープンしました。
この叙々苑の内装設計を一手に引き受けたのが、太田光さんの父・太田三郎さんです。
当時太田三郎さんは都内で内装業を営み、設計事務所を経営していました。
その実力は1970年に開催された大阪万博のプロジェクトに参加するほど。

1970年の大阪万博は日本の高度経済成長期を象徴する一大イベントでした。そのプロジェクトに関わったということは、三郎さんの建築士としての実力が広く認められていたことが分かります。
叙々苑の新井会長も一切の内装は三郎さんに任せたと言い切っていて、三郎さんの技術とセンスは高い評価を受けていたことが分かります。
【父】三郎が手がけた叙々苑ロゴの誕生秘話
引用:Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%99%E3%80%85%E8%8B%91
そして叙々苑のロゴは三郎さん自らが書き上げて提供したものです。
ウチの親父は建築家で、叙々苑の店舗の設計をやってたんです。そのときに、『叙々苑』の字を書いたんです(太田光談)。
引用:スマートフラッシュ
https://smart-flash.jp/entame/85516/1/1/
実は三郎さんは建築家としてだけではなく、書道家としても有名。
三郎さんが書道を学んだ理由は内装業が関係していました。
建築士として内装業を営む三郎さんにとって、お店の看板の文字は必要不可欠なもの。
しかし、毎回プロの書道家に依頼していては制作費がかさんでしまいます。
そこで三郎さんは、「それなら自分で書けるようになろう」と一念発起。
日中は内装業を営むかたわら、仕事が終わった夕方は書道教室に通うという生活を送っていました。
父と叙々苑創業者の絶縁までの経緯
引用:日本食糧新聞 叙々苑創業者・新井泰道氏https://news.nissyoku.co.jp/restaurant/goushi20220914045605774
太田三郎さんと叙々苑創業者・新井泰道さんの関係は、当初は非常に良好でした。
1976年にオープンした叙々苑1号店(六本木店)は、三郎さんの革新的な内装デザインも影響し大きな成功を収めます。
この時期の両者は、叙々苑の成功を共に喜び合う関係でした。
しかし、叙々苑の事業拡大に伴い、両者の関係に亀裂が生じ始めます。
価格設定や事業方針をめぐる対立が原因となり、最終的には絶縁状態になってしまったそうです。
一時期、ケンカしてたのよ、親父と叙々苑の社長さんっていうのはね。で、初代の店舗からずっと親父はやってたんだけど、それこそ途中で値段のことでとか…
引用:ラジサマリー
https://radsum.com/archives/7559
そのため太田光さんも、長年父親の功績を公にすることを躊躇していました。
ウチの親父は建築家で、叙々苑の店舗の設計をやってたんです。そのときに、『叙々苑』の字を書いたんです。でも、叙々苑の社長とケンカしているので、あまりそのことは放送では言えない
引用:スマートフラッシュ
https://smart-flash.jp/entame/85516/1/1/#goog_rewarded

叙々苑から話題に出さないでくれと言われたこともあったとか
具体的な仲たがいの原因は当事者が多くを語らなかったので分かっていませんが、長く絶縁した状態が続きます。
険悪な状態は三郎さんが亡くなる前まで続き、新井会長が病院に見舞いに行ったことでやっと両者は和解したそうです。
どっかで聞いたんだろうな、親父が危ないっていうんでさ。(太田光談)
引用:ラジサマリー
https://radsum.com/archives/7559
は高内三恵子!奥さんは元ミス慶応で子供が1人!.001_1-300x169.jpeg)
太田光の母と永井一郎【波平】は結婚するはずだった?
引用:日本経済新聞 声優・永井一郎https://www.nikkei.com/article/DGKDZO35394530W1A001C1NNSP00/
太田光さんの母・瑠智子(るちこ)さんとサザエさんの波平役で有名な永井一郎さんは、若い頃に恋人関係にありました。
しかも永井さんと三郎さんのどちらと結婚したらいいか悩んだ時期があります。
『サザエさん』の波平の声をしていた故・永井一郎さんと親しかったんです。結婚前、夫と永井さんのどちらを生涯の伴侶にするか悩んでいましたよ(瑠智子さんの古くからの友人)
引用:女性自身
https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/1613272/#goog_rewarded
もしも三郎さんと出会わなければ、永井さんと結婚していたと語るほど、永井さんとは真剣交際だったようです。
【母】瑠智子と永井一郎の出会い
引用:gooブログ 太田光の母・瑠智子さん
https://blog.goo.ne.jp/ska-me-crazy2006/e/43a3938394d81cc3e68fa46683e32146
太田光さんの母・瑠智子(るちこ)さんと永井一郎さんは、1950年代の演劇界で出会いました。
当時瑠智子さんは本格的に女優を目指していて、俳優養成所に通うほど。
その後実際に劇団に所属し活動を始めています。
独身時代は女優を志し、劇団に所属していた時期もあった
引用:女性自身
https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/1613272/#goog_rewarded
一方で永井一郎さんも同じ時期、演劇界で活動していました。
1949年に京都大学文学部に入学した永井さんは演劇部に入部し、卒業後は東京に進出して劇団三期会に参加しています。
卒業後、東京で俳優の養成学校に通った後、昭和31年から劇団三期会に参加
引用:NHKアーカイブス
https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=D0009250426_00000
2人が演劇活動をした1950年代は戦後復興で日本の演劇界が盛り上がっていた時代でした。
新しい劇団がたくさんできて、若い演劇人たちが熱心に活動していました。
この熱気ある環境で2人は出会い、共通の夢を持つ仲間として恋に落ちたと考えられます。
もし母が永井一郎と結婚していたら・・・
引用:Youtube 永井一郎さんがC.Vを務めた磯野波平(左)
https://www.youtube.com/watch?v=iRtiZ3F3e64
もし永井一郎さんが太田光さんの父親になっていたら、より温厚で人情味あふれる人間として育ち、現在の毒舌芸風はなかったかもしれません。
それというのも、この2人は対照的な性格をしていました。
太田光さんの実父である太田三郎さんは、息子との関係に不安を抱えるような繊細な性格でした。
何にも面白くない。生きてても何も面白くないし、お前のテレビを見てても一つも面白くない。本当に俺は生まれてきて後悔した。お前は家にも帰ってこないしね
光くんさ、俺のこと嫌いだったろ?
引用:スポニチアネックスhttps://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/11/16/kiji/20221116s00041000257000c.html?page=1
太田光さんはこの言葉に「絶句した」と語り、「本当に嫌われてると思ってたみたいなの」と振り返っています。
一方、永井一郎さんは外向的で人望の厚い人物として知られていました。
同業者の松本梨香さんによると、永井さんはかなり面倒見がいいとのことです。
現場で若手が叱られ落ち込んでいると場を和ませるなど、気遣いの名人(松本梨香談)
引用:Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E4%B8%80%E9%83%8E
永井さんが父親だった場合、毒舌はありませんがより優しい太田光さんとして活躍したかもしれませんね。
太田光の幼少期と家族の暮らし
引用:レジュメディア
https://resumedia.jp/31374.html
太田光さんは建設会社社長の太田三郎さんと、元女優志望の瑠智子さんの一人息子として育ちました。
三郎さんは有名店舗叙々苑の内装デザインを手がけるなど事業的に成功していたので、一般的な家庭と比較して経済的に恵まれた環境で育ったと考えられます。
あのね、覚えてるのがね、家族で旅行…親父が、よくお正月とか連れてってくれんの、いろんなとこに。
引用:ナイナイサイズ(2000.12.2)より
https://note.com/century_around/n/na86340c6d126
旅行が思い出ということで、生活には余裕があったことがうかがえますね。
太田光の生い立ち
引用:レジュメディア 太田光さん
https://resumedia.jp/31374.html
太田光さんは1965年5月13日、埼玉県入間郡福岡町(現在のふじみ野市)で生まれました。
太田光さんは小学校時代に、途中で転校を経験しています。
1972年、上福岡市立第二小学校(現:ふじみ野市立上野台小学校)に入学し、1975年に上福岡市立第六小学校(現:ふじみ野市立元福小学校)へ転入、1978年3月同校卒業
引用:名言まとめドットコム
https://www.underwater-festival.com/yj00176/
この子供時代の経験が人格形成に影響したからなのでしょうか、高校時代は全く友達のできない生活を送ったそうです。
高校では俺に『ねぇねぇ』って言ってくるヤツがひとりもいなかったんです。ほんと
引用:爆笑問題 太田光自伝
自分から声をかけることのできない、そんな高校生だったそうです。

そんな内気な太田光さんに対しお母さまは、「そのままでいいんだ」と受け入れていました
文学書が好きな父と演劇が好きだった母
太田光さんの父親である太田三郎さんは、建築士という本職の傍ら、幅広い文化的素養を持っていました。
小説とか本とかいっぱい読んでるし、絵も興味あるし、書道とかね、そういう芸術が好きなわけ。(太田光談)
引用:ナイナイサイズ(2000.12.2)より
https://note.com/century_around/n/na86340c6d126

本当は落語をやりたくて、太宰治に自分の小説を持ち込んだというエピソードもあります
このような父親は目標であったと太田光さんは語っています。
また女優志望だった母・瑠智子さんは、幼少期から太田光さんに演劇を見せていました。
うちの母親は芝居が好きで、自分も女優を目指していたぐらいだったので、連れていかれて。地域で集まって芝居を見に行く集まりの幹事役もやっていたかな。(太田光談)
引用:日経ビジネス
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00505/100600001/
このような両親の文化的教育が、太田光さんの創作能力や表現力の基盤になっていったと考えられます。
引用:ザテレビジョン 爆笑問題
https://thetv.jp/person/0000064817/

太田光が語る両親への思い
太田光さんの両親への思いは、深い愛情と感謝に満ちています。
現在はご両親とも亡くなっていますが、最期まで心を通わせる美しい関係だったようです。
ご両親との最期の別れを紹介したいと思います。

父・三郎さん(享年83歳)は、かねてから病気療養をされており、2012年3月に急性循環不全で亡くなられました。
また、母・瑠智子さん(享年83歳)は、2016年11月8日に肺気腫による呼吸不全で亡くなられました。
引用:オリコンニュース
https://www.oricon.co.jp/news/2081341/full/
父への唯一の親孝行とは
太田光さんの父への親孝行は、
- 病室で最期を看取ったこと
- 死後、名誉回復の裁判を起こしたこと
です。
病室で最期を看取ったこと
父親が脳梗塞で意識もほとんどない状態で死んでいく間際、太田光さんは埼玉県の病院に駆けつけます。
そして実の息子に嫌われているのではないかと心配していた父親に最後の言葉を何度も伝え、好きだった落語を一緒に聞きました。
耳元で“本当にありがとうな”って何度も言いました。何度も言って(古今亭)志ん生の落語を2人で聞きました。弟子になりたかった人なので」と父親が憧れていた落語家の噺を聞いたことが最後の親孝行で思い出と語った。
引用:スポニチアネックスhttps://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/11/16/kiji/20221116s00041000257000c.html?page=1#goog_rewarded
父親への愛情にあふれた最高の別れかたですね。
死後、名誉回復の裁判を起こしたこと
引用:スポニチアネックスhttps://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/12/22/gazo/20201221s00041000609000p.html
太田光さんのもう一つの大きな「親孝行」は、父親の死後に起こした裁判です。
2018年、週刊新潮が「爆笑問題『太田光』を日大に裏口入学させた父の溺愛」という記事を掲載。
太田光さんの父・三郎さんが800万円を支払って太田さんを裏口入学させたと報じました。
これに対し太田光さんは名誉毀損で新潮社を提訴。
父親の人格を信じると力強く発言しました。
親父はそんなことする人間じゃなかった。もしかしたら裏でしていたかもしれないけど、少なくともオレには見せなかったし、周りの人間もそう思ってなかったから。別にそれをしていても尊敬は変わらないですけど、世間にそういうイメージをまき散らしたっていうのが許せなくて
引用:オリコンニュース
https://www.oricon.co.jp/news/2179683/full/#google_vignette

裁判の結果、太田光さんは勝訴し、名誉棄損が認められたそうです
母の最期と太田光の思い
引用:女性自身 太田瑠智子さん
https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/1613272/
太田光さんの母・瑠智子さんは気丈な人で、最期まで太田光さんに心配をかけまいとする姿勢を続けました。
夫である三郎さんの介護をするようになった時も、次第に体がボロボロになっていったという瑠智子さんですが、太田光さんが自分のせいで世間から非難されないようにと我慢していたそうです。
“太田の親がああだこうだ”と言われたくなかったんでしょう。『私がいる間は施設に入れない。他人に面倒は見せられない』ってがんばっていました(瑠智子さんの友人談)
引用:女性自身
https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/1613272/#goog_rewarded
そして三郎さんが亡くなった後、83歳になる瑠智子さんはタンスの整理中に尻もちをつき、それがきっかけで一気に体調が悪化してしまいます。
太田光さんが病院に駆けつけつらいかと尋ねても、呼吸が苦しそうだったにも関わらず、瑠智子さんは首を横に振って最期まで弱音を吐きませんでした。
僕は母から弱音、弱気、人の悪口、痛いとかつらいとか聞いたことはなかった。強い母だった
引用:オリコンニュース
https://www.oricon.co.jp/news/2081341/full/
父・三郎さんの時と同じように
医師から「もう長くはないかもしれない」と告げられた時、太田さんは母親が愛していた越路吹雪の歌を思い出しました。
iPhoneで愛の賛歌とバラ色の人生を見つけ、イヤホンの片方を母親の耳に、もう片方を自分の耳にあて、父・三郎さんの時と同じように、一緒に最後の音楽を楽しみました。
ちょうど2曲を聞き終わったときに瑠智子さんは亡くなったそうです。
最期に、太田光さんは母に対し感謝の気持ちを述べています。
最期は静かで綺麗で鮮やかな死に様でした。不肖の息子にとって憧れの格好いい母です
引用:女性自身
https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/1613272/#goog_rewarded
父親と同様に、母親に対しても愛情を込めて見送った太田光さん。
天国のご両親は、これからも見守り続けることでしょう。

まとめ|太田光の父親と叙々苑の裏話!母と永井一郎【波平】は結婚するはずだった?
この記事を読んでわかることをまとめました。
・太田光の父・三郎さんは内装業を営んでいて、1970年の大阪万博に参加するほどの技術の持ち主だった。
・父・三郎さんは叙々苑の創業者・新井泰道氏から信頼され内装を任されていいて看板の文字も手掛けたが、叙々苑の拡大に伴い絶縁状態になった。
・母・瑠智子さんは独身時代は女優を目指していて、志を同じくする永井一郎さんと交際をしていた。
・太田光は高校時代友達が1人もできなかった。
・両親の文化的な教育で、その後の太田光の表現力や創作能力が培われた。
・太田光は両親に感謝していて、両親が亡くなる時、2人がそれぞれ好きだった落語と音楽を一緒に聞いて見送った。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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